「あなたたちもぶどう園に行きなさい。」(マタイ204

                                                               2017年10月15日

                                                                    大和カトリック教会 

                                                                    主任司祭  鈴木正夫

 

 

この数週間の福音朗読では、ブドウ園にまつわる話が続いています。25主日では、「天の国のたとえ」としてぶどう園に働き手を呼び集める雇い主の話です。夜明けに出かけて行き、9時頃出かけて行き、また12時頃と3時頃にも出かけて行き、なんと夕方5時頃にも出かけて行きます。「あなたたちもぶどう園に行きなさい」と呼びかけます。そして彼らにも一日働いた分の賃金を与えるという話です。

 26主日では、「子よ、今日、ぶどう園へいって働きなさい」という二人の息子を持つ父親の話です。「いやです」とこたえた兄でしたが、あとで考え直してでかけました。弟の方は「承知しました」と良い返事はしますが、結局行かなかったという話です。

 27主日では、家の主人が立派なぶどう園を作り、農夫達に貸して、旅に出た話です。旅先から収穫を納めるよう何度も使いを送るが、農夫達は主人からの使いをないがしろにします。最後に主人の息子まで送りますが、殺されてしまいます。

「ブドウ畑で働く。」これはイエスのたとえ話の特徴のように思われます。それぞれの話には、固有の話の主題がありますが、ブドウ畑で展開する働き手とぶどう園の主人との関係が扱われていることに気づきます。最後のぶどう園と農夫の話は、そもそも、本来のぶどう園が誰のものかを認めない話となっています。働いて得たぶどうの収穫は自分たちのものであると言う考え方です。現代の私たちの世界と似ています。親の愛情によって生まれ、育てられ、教育され、大学を出、その結果、自己実現とか言って自分の好きな未来を築こうとしています。神に感謝したり、親や社会に感謝したりすることなく、自分の努力によってすべてがあると思っています。格差社会と言われ、賢いものが繁栄を享受し、運の悪いものは非正規社員として安月給をもらうしかないという構図になってしまっています。でもこの世のすべては「主のぶどう畑」と理解し、収穫のすべては主のものと、とらえるべきものでしょう。この世は、健康で生まれたり、病弱で生まれたり、戦争のただ中で生まれたり、虐げられている民族の中に生まれたりしているのです。本人の選択をこえるものです。「頑張った、頑張らなかった」のレベルを超えているものです。

 「あなたたちもぶどう園に行きなさい」という呼びかけは、「主が居られるぶどう園の中で働きなさい」という信仰生活へのよびかけととらえられます。25主日の福音では、何度も何度も働き手を呼び集めに来るぶどう園の主人の話です。夕方5時頃ではもう働く時間は残っていないのに、それでも「あなたたちもぶどう園に行きなさい」(7節)と夜明け頃に雇った人々と同じ呼びかけをしています。そんな彼らにも一日分の給料を払うというお話です。

 26主日では、「子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい」(マタイ2128)と親としての呼びかけをしています。「いやです」とこたえますが、あとで考え直して、出かけます。「お父さん、承知しました」と返事し、行かなかった弟のようであってはならないのです。

 

       

 

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