■2月14日(灰の水曜日)のミサは

7時からと10時からの2回行われます。

 

※18日(四旬節第一主日)のミサの中では灰の儀式は行われないので、ご注意ください。

 


 

■2018年度信徒大会が開催されます。

  

  日 時:2月25日(日)9時半のミサ閉祭後

  場 所:聖堂

    ※詳細はこちらから

 


 

「私が老いて白髪になっても 

神よ、どうか捨て去らないでください」(詩71.18) 

                                                     2017年12月25日

                                                                    大和カトリック教会 

                                                                    主任司祭  鈴木正夫

 

 

   最近は葬儀や納骨の話が多く、ほぼ週に一度のペースで実施されている。それと関連して、危篤の知らせがあり、病院・ホーム等を訪れ、「病者の塗油」を授けることも多い。これを書いている本日も訪問の予定が入っている。

 本人だけがカトリック信徒で周りがそうでない場合、どうして良いかわからず不安な気持ちで問い合わせの電話が来る。「長い間、教会に通っていなかったのですが、本人がカトリックなものですので、葬儀はカトリックでやっていただけるものでしょうか」「大丈夫ですよ。今どのような容態ですか。まだ意識ははっきりしていますか。」名前を聞いて調べてみると確かに信徒名簿に記載されている。「葬儀の前に、本人に会わせていただけませんか」葬儀のことで電話したのに、見舞いに来てくれることになり、大変感動される。すでにこの世の生活は終わってしまったと、かたづけられてしまっている印象がある。亡くなる前にして差し上げられることがあることを知らないのです。司祭を呼び、ゆるしと病者の秘跡、できれば御聖体をいただけるということがあるのです。一般信徒でもこのような死に向かう方々のためにできること、すべきことがあることを徹底していく必要あります。信徒でさえ、葬儀の話に重点が置かれ、今人生の終わりを迎えようとしているご本人の切なる思いには至らないことが多い。

 人生には幅広いステージがあり、生まれるとき、育てられるとき、結婚し子供を造り一家を支えていくような時もあります。「日本カトリック司教団」が最近増新版された「いのちへのまなざし」に「老いを生きる」という箇所があります。高齢化社会はこれまで体験のないもので、挑戦として受け止めること。キリスト者として生き生きとして老いていく高齢者の姿を見せることは、次の世代にとって励ましとなることなどが指摘されており、復活の信仰は、この世のいのちですべてが終わるものではなく、人生の究極の目標は、永遠の神との出会いであって、老いと死は神との決定的な出会いをするため、人が通らなければならない関門であるとも指摘しています。この章の終わりに、ヘルマン・ホイベルス神父様の詩があります。少し、紹介しましょう。

 祈る 最上のわざ この世の最上のわざは何? 楽しい心で年をとり、働きたいけれども休み、喋りたいけれども黙り、失望しそうなときに希望し、従順に、平静に、おのれの十字架をになう。(・・・)おのれをこの世につなぐくさりを少しずつ外していくのは、真に偉い仕事。こうして何もできなくなれば、それを謙虚に承諾するのだ。神は最後に一番良い仕事を残してくださる。それは祈りだ。手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。

 高齢者の中でも、もう何もできなくなった時の思いが綴られているように思います。信仰深くその現実を受け止めようとなさった神父様の信仰が伝わってきます。

       

 

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