両方とも、育つままにしておきなさい(マタイ13,30

 

                        2019年6月25

                        カトリック大和教会

                                                            主任司祭 鈴木正夫

 

教会は主の復活の出来事を長い復活節を通して祝ってきました。聖霊降臨の出来事で締め括ることになります。聖霊が降りイエスのなされたことをことごとく思い出し、イエスを理解する恵みが与えられます。

初めに毒麦のたとえ話を思い出しましょう。良い麦の種を蒔きました。人びとが眠っているうちに、敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て実ってみると、毒麦も現れた。「旦那様どこから毒麦が現れたのでしょう」と農夫は聞きます。「敵の仕業だ」と主人は答えます。「では、行って抜き集めておきましょうか」と言います。「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」と主人は答えます。(マタイ132430

 「今すぐ、どうしても毒麦を抜き去る」事をさせず、刈り入れの時(最後のとき)まで待たせる主人の姿があります。最後まで毒麦と一緒に育つのが良い麦の姿なのでしょう。

 「わたしは世を裁くためではなく、世を救うために来た」(ヨハネ1247)と言われる通り、イエスの生涯は、一貫して悪人と戦い、彼らを征伐することに主眼を置いていないことがわかります。むしろやられっぱなしのイエスの姿が見られます。ユダの裏切りがあり、大祭司たちに捕まりさばきを受け、ローマ総督ピラトの前での裁判では明らかにユダヤ人たちの煽動があり、人殺しのバラバよりイエスの方が「十字架につけろ」と叫ばれます。恐ろしいほどはっきりとした悪意がそこにあります。自分の選んだ弟子に裏切られ、ユダだけでなく、弟子の筆頭ペトロからも「イエスを知らない人」と裏切られます。私たち普通の人間でしたら、憎しみが生じます。怒りが生じます。そして仕返しを考えます。それをしないと正義が行われないからです。正義のためにも世の中の悪を断ち切らなければならない大義が生まれ、人びとはそれを当然としています。仇討ちは忠臣蔵のテーマですし、多くの日本人の倫理観でもあります。

しかしイエスはそこに焦点を向けていません。人の悪が問題ではなく、人が神の恵みにより、人を愛し、たとえその人が悪人であったとしても、その人を許せる人間になることが問題なのです。「互いに愛し合う人間になること」が彼の教えなのです。それこそ、常人では思いつかない教えなので「新しい掟」と仰っておられるのでしょう。

 わたしたちは、人を裁きます。人を裁くために、あれこれとその人のした悪事を数え上げます。人を裁く理由はたくさんあるのです。だから、人を裁くのです。

「あなた方に新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ133435

 イエスの弟子であることは、「毒だ 毒だ」と騒ぎ立てないことです。毒麦の中で毒麦と共に笑いながら共に育つことでもあるのです。

 

 

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